(この話は、パラマハンサ・ヴィシュワナンダの著書「Just Love 3:The Essence of Everything」からの引用です。お楽しみください!)
シルディ・サイ・ババは、もっと長く(自分の体に)いられたのに、彼は一人の帰依者の病気を引き受けました。それは、彼の息子として世話をしていた帰依者でした。なぜなら、タティヤ・パティルの母と、彼の面倒を見ることと、彼に何も悪いことが起こらないことを約束したからです。そしてある日、この帰依者が結核になり、当然のごとく、喀血しました。
毎日人びとがサイの所に行き、「あなたの甥は病気じゃないか。あなたはたくさんの人びとを助けてきたし、治してきたんだ。何かしてあげてくれ。なんで彼はまだ病気なんだ?なんで何もしてあげないんだ?」と言いました。しかし、甥はそれを受け入れていて、そのことについては一言も言いませんでした。彼はサイに「私を治すか、何かしてください。」とは決して言いませんでした。そこでサイが言いました。「もう私は年老いた。すっかり年寄りだ。だからもう行くべき時がきた。」
そこに、ずっとシルディ・サイ・ババの面倒を見てきていた一人の女性、ラクシュミー・バイがいました。彼が死ぬ間際、「あなたに与えるこのコインは、バクティの9つの姿だ。」と言いながら、彼女に9つのコインを渡しました。そのことを知らせてから、彼はタティヤ・パティルの病気を引き受け、「さぁ、ちょうどいい時だ。」とみんなに言いました。それから彼は全ての病気を彼自身の体に移しました。彼はシッディ(霊的な力)によって行いました。それから彼は、喜んでマハサマーディに入りました。
「(以前)私は誰かに、サマーディとマハサマーディの違いについて話しました。いろいろなサマディがありますが、聖者は、死ぬ時はいつもマハサマーディに入ります。なぜなら、喜んで「よし、私は行こう。」と言うからです。彼らにとっては、簡単なことです。勿論誰かが「そう、私は自ら命を絶って、行くことができる。」と言うかもしれません。しかし、同じ方法で行くわけではありません。シルディ・サイ・ババの人生には、私たちが話せる出来事がたくさんあります。大きな意味を持つ、たくさんの小さなことを見ることができます。しかし、シルディ・サイ・ババの話はみなさんよく知ってると思うので、その詳細には触れないことにします。彼の人生は一つの例です。彼はシンプルで自由でした。もし人びとが彼を怒らせようとしても、彼はニュートラルでした。なぜなれ彼は人びとをとても愛していたからです。全ての人を歓迎していました。
しかしながら、彼は人びとが彼の所に来た時には、こんなおかしな方法でふるまいました。人びとが彼の所に来た時に、彼は本当に怒っているようにふるまって、人びとを追いやったという出来事がありました。彼らを追いやった後、彼らを呼び戻し、愛情のこもった母のように、彼の全ての心づかいと愛で彼らをもてなしました。勿論人びとは理解できません。「彼は最初に私たちを追いやっておいて、なんで今度はこんなに親切にするんだろう?」実際には、彼は人を人として追いやったわけではなく、人の否定的性質をおいやったのでした。彼はその人からその質を取り去ったのでした。彼のやり方が奇妙だったのは、彼は決して何をしているのか直接言わなかったからです。彼はいつも自分自身と話し、気が狂った人のように世界の幸福の面倒をいつもみていました。このようにするのがマスターの典型であるとご存知ですか?さもなくば、人びとが事を理解するのはとても容易になるでしょう。賢い人だけが理解できるでしょう。私が意味しているのは、マインドの賢さではなく、ハートの賢さ、識別力があるということです。
かつて、一人の男とその仲間が、シルディ・サイを殺す計画を立てました。彼らは、いつも彼が通るある道を知っていました。それで彼らは岩陰に隠れ、そこへシルディ・サイが通り過ぎる時に彼を殴打する計画を立てました。彼らが彼を打とうとした時、彼はただ振り返り、彼らは彼の目の中に、メッカと月と星を見、彼らは変容しました。とても怖くなり、何人かは逃げました。しかし、彼を殺そうとした男は変わりました。彼は、シルディ・サイの御足にひれ伏し、彼に許しを乞いました。
シルディ・サイは彼に言いました。「見なさい、愛しい者よ。無知のマインドの中で、人は違いを見、限界を見る。しかし、何千もの名前の中にたった一人の神がいる。あなたはアッラーと呼ぶこともできるし、バガヴァーンと呼ぶこともできるし、他の神の名前で呼ぶこともできる。しかし、あなたが呼んでいるのは同じ神だ。もし神が限界を持っていたら、それは神ではあり得ない。私たちは、「神はこれだけだ。」とか「神はあれだけだ。」とか言うことはできない。それでは、どのように彼は神になり得るのか?神は全ての現れです。神はこれでもありあれでもあるのです!違って見えるものでも、彼の現れでしかないのです。」そしてこのことに気づき、その男は変わりました。
おわかりのように、私たちはあまりに外側を見ています。外側に限界を与えています。勿論、私たちはまず外側を作っていかなければなりません。それから徐々に、外側を越え、無限に移行することができます。有限から無限へ、制限のあるものから無制限のものへの移行ができるようになります。あなたはマインドを持ち、体を持ち、そしてそこには限界があります。最初にあなたの人間らしさの扱い方を学びなさい。そうするとそれからあなたは、神性を扱えるようになります。
シルディ・サイ・ババは、このように偉大な例であり、偉大な聖者です。しかし、彼はいつも謙虚でした。もし彼が望めば、大きなお城に住むこともできたでしょう。彼は人びとに多くを与えました。そして今も多くを与え続けています。彼はだいぶ昔に亡くなっていますが、彼からまだ恩恵を受けているたくさんの人たちがいます。彼の約束の一つは、「私は死んでさえ、私の墓から語るだろう。」ということでした。彼はこうも言いました。「あなたが私を見ている時、私はあなたを見ているでしょう。」彼は多くの帰依者たちに、何度もこのことを示してきています。私でさえ、彼との多くの体験を持っています。誠意を持って彼を呼びましょう。