2012年9月10日月曜日

シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダ

シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは霊的な指導者です。1978年にマウリティウス島のヒンドゥー家庭に生まれ、子供の時から宗教的な慣習や霊性に大きな関心を示していました。幼い頃から神や聖者達の存在を知っていたのです。その比類のない人間性はまもなく忠告や祝福を求める多くの人々を引き寄せました。勉学の終了後はその天職に身を捧げ、アフリカ、ヨーロッパを始め、世界各国からの招待に応じて、数多くの地を訪れました。


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの心は全ての宗教や文化に対して開かれています。シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの特別な愛はキリストと、その無条件の愛と寛容に貫かれた教えに結び付いています。そして大変自然な方法でヨーロッパの伝統とヒンドゥー教の精神を結び合せ、様々な文化や年代の人々に神を個人的に体験する道を教えています。
「私達は皆兄弟であり、同じ神から来ています。私達の真の姿は、日常の感情と思考の背後に隠れている私達の魂、私達の自己です。私達の兄弟全員と再び一体になるために、私達は肉体、精神、魂が内面的に一つであることを経験しなければなりません。私達はありのままの自分、そして各々の肉体、感情、思考をそのままの姿で受け入れ、愛さなければなりません。又それと同時に自らの魂を追い求めなければなりません。人間は皆同じ源から来ていること、そして又同じ源へ帰っていくことを思い出さなければなりません。」


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの活動の中心を成しているのは、ダルシャン(祝福)、そしてバクティ(愛と献身)の意味における霊的な生活に関する実際的な手引きです。それには規則正しい祈祷、ヤグナ、アビシェカム等の儀式、瞑想、唱歌、そして霊的な道を深める為のヨーガ、ムードラ、マントラ等の実習が加わります。



シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは、この霊的な道を歩むには、忍耐と持久力が必要なこと、そして日常の生活と同様に、決して性急な結果を要求しないことを強調しています。スワミ・ヴィシュワナンダは人々が師の言いなりになることを望んではいません。人間は自分の内部の神とグル(師匠)を信頼すべきであると言っています。



「私達は常に健全な常識を使用するべきです。舞い上がって、現実を顧みなくなることには、何の意味もありません。私達は地面に足をつけ、この地上で自分達の仕事をしなければなりません。神を敬い、また自らを敬うことによって、私達は段々に成長していくのです。」


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダはキリスト教の聖者と東洋の霊的な師匠に深い繋がりを感じ、その生涯と教えを学んで、それを皆に伝えています。又好んで聖画像を描くことに時間を費やしています。シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの言うところによれば、私達はこの聖者達の例に倣って、神に対する完全な献身を身につけ、又その人達の人生から霊感を受けることが出来るのです。聖画像を描くこと、儀式や祈祷、そして唱歌等は全て各々の聖者や私達の内にある神に対する繋がりを深めていくことに意味があるのです。



「聖人は全ての人間を平等に愛しています。それは人間が皆神の分身であり、又その創造物であることがよく解っているからです。聖者達には最初から人種、文化、宗教等に関する疑問は湧いてきません。私達も又この例に倣うべきです。私達の地球とその創造物は全て愛から生まれ、愛によって育まれ、又愛に戻っていくのです。」




「時代を超えて多くの指導者、聖者、賢者が現れました。それが如何に様々な言葉や伝統に包まれていても、この人達が伝えることは根本的にはいつも同じでした。今の世界に欠けているのは神を実現する為の教義ではなく、人々がこの教えを実行に移そうとする意志です。特に現代には外面的な愛着に引かれ、気を散らす対象がいくらでもあります。それは無常で、苦しみの原因に成る物です。それでいわゆる内面的な愛着を呼び起こすことが必要なのです。これは永遠で苦しみを生ぜず、口では言い表せない喜びを引き起こします。神は窓から射し込む太陽の光のように常に存在しています。でもカーテンを寄せ、窓を開けるのは私たち自身です。」

スワミ・ヴィシュワナンダの願いは、内面の神の光を求めて歩む人々を助けることです。沢山の人々が霊的な、あるいは日常生活における様々な疑問に対する忠告を求めてスワミ・ヴィシュワナンダを訪れ、その出会いに心を動かされています。スワミ・ヴィシュワナンダは神を心の底から愛し、非常に直接的な、又簡単な方法で神を人々に近づける能力を持った人です。



「期待という物は全て苦痛をもたらします。私達の魂には只一つ真の期待があり、それが神の真の愛なのです。この神の真の愛は献身によってのみ、私達の心の中に見出すことが出来ます。歩むべき道を示してくれる師匠の所へ行くことも出来ますが、真に神の傍に居たいと望むこと、それを求めてやまないこと、それは皆その人自身からきているのです。何故かというと、神を心から求め、又神を真に欲さない限り、それは捜し求めている段階で終わってしまいます。片足を踏み入れていても、もう片方の足は何処か別の所にあるのです。

この真実の愛を見出し、神との心の中の深い繋がりを認識するには、神への献身であるバクティを実習しなければなりません。あなた方が心から身を捧げ、『神様、私はあなたのお傍へ行きたい、私の所に現れて下さい』と言ったなら、神様はあなた方の所へ現れることでしょう。神様はあなた達に『ノー』とは言えないのです。何故かといえば、あなた方の自己はあなた方から隠れることは出来ないからです。あなた方の心の奥深くにまどろんでいる、このより高い意識は、あなた方の精神が完全に神に向かった時に現れて来ます。さあ、神様を求め、心の奥底から呼びかけてごらんなさい。『神様、お姿を現して下さい。あなたが何処かとても深い所におられるのは分かっています。時々はあなたを感じることも出来ます。あなたがそこにおられるのも分かっています。でも私は常にあなたを感じていたいのです。絶え間なく!』あなた方の誰もが望んでいるのは、まさにこの神の愛を常に感じていること、そうではありませんか?」

*以上はシュリ・スワミ・ヴィシュワナンダが人々に話した色々な訓示の言葉からの引用です。