2012年12月23日日曜日

ラマ・ンガワング の訪問

昨日ネパールのラマ・ンガワングが、ドイツにある、
シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダのシュリ・
ピタ・ニラヤ・センターを訪問しました。
この2人は2週間前にネパールで知り合います。
ラマ・ンガワングは13年前ネパールに
グレイト・コンパッション・ボーディング・スクール
という名の学校を創立しました。彼はこの公共の
仕事を通して、その地域の数多くの子供達に良い教育と
家庭を与える手助けをしています。
スワミジとラマは親しい友達になり、
様々な文化や宗教の歴史、又その
教えを交わし合いますスワミ・
ヴィシュワナンダはネパール訪問の最後に、
ラマ・ンガワングがドイツを訪れた時には、
何時でもここシュプリンゲンへ来るようにと、
心から招待します。
そして2週間後、ラマはシュプリンゲンの
センターを訪れます!
ラマは今回旅行中に立ち寄っただけで、
余り時間がなかった為、
昨日お寺で「夕べの祈祷」があった後、
スワミジが又来年も来るように招待したことを話します。
ラマは又訪れる日を大変楽しみにしていること、
その時には私達と一緒に砂でマンダラを作ったり、
又仏教について話し合おうと言っていました。

2012年11月30日金曜日

スワミ・ヴィシュワナンダとの東インド巡礼の旅

2012年の11月、スワミ・ヴィシュワナンダは
信者40人のグループと共に、2週間東インドへ巡礼の旅に出ます。
約40人からなる今回のグループはドイツ、スイス、ポルトガル、
ポーランド、イタリア、ロシアなどから集まった信者達です。 
今回最初の滞在地はカルカッタで、ここでは幾つもの
重要な寺院を訪れました。例えばカリガートのカリ寺院、
そしてダクシネシュヴァールのカリ寺院、ここではシュリ・
ラマクリシュナと夫人のサラダ・デヴィの
部屋等も見学することが出来ます。カリは聖母様の一つの姿です。
カルカッタでは聖母テレーザの住居も訪れました。
そこには彼女の墓碑もあります。
スワミ・ヴィシュワナンダの巡礼の旅はその後シュリ・
ユクテシュワの住居があるセランプールへ向かいます。彼は有名な
「あるヨーギーの生涯」の著者であるパラマハンザ・ヨガナンダの
師匠です。ヨガナンダはその生涯の長い期間をここセランプールで、
マスターのシュリ・ユクテシュワと共に過ごします。
ボド・ガヤは仏教徒にとって最も大切な巡礼地です。ここには
仏陀がその下で悟りを開いたと言われるバンヤン樹があります。
その傍には広大な庭園のある、大きな寺院が建てられています。
ヴィシュヌ・パダム、ここには主ヴィシュヌの足跡が
残っています。ヴィシュヌはヒンドゥー教の
三位一体の一部と見られています。これは
神様の三つの姿から成っていて、創造主である
ブラマと破壊者であるシヴァに並んで、
ヴィシュヌは保存者としての姿を表しています。


数多くの滞在地を後に、今回の旅は最後の
5日間を聖地ヴァラナシで過ごします。
ヴァラナシは世界で最も古い地の一つです。
古くからの名前、ベナーレスやカシとしても知られています。
この町は、ここの人達にとって最も聖なる
ガンジス河に沿って横たわっています。
多くの人達が、火葬してもらうことを望んで、
死ぬ間際にここへやって来ます。そこには
町中からガンジス河に導く大きな石の階段があり、
人々は聖なる河に入って身を清めます。
又毎晩母神ガンガに敬意を表して、祭司達によるアルティ、
光の儀式が行われます。この宗教的な祈祷には
沢山の人達が集まって来ます。ある人達は階段や、
その下の広場に腰をおろして、又他の人達はボートに乗って、
ガンジス河からこの儀式を見守っています。
「あるヨーギーの生涯」に書かれているように、
パラマハンザ・ヨガナンダは何度もヴァラナシを訪れ、多くの
聖者と知り合いました。この格別な巡礼地で、我々のグルジ、
スワミ・ヴィシュワナンダと一緒に、シュリ・ユクテシュワの
師匠であるラヒリ・マハシャイの寺院を訪れます。


ここで今回の巡礼の旅は終わり、我々の愛する師、シュリ・スワミ・
ヴィシュワナンダと共に過ごした、様々な滞在地での数多くの
印象的な体験と経験を胸に抱いて、再び帰国の旅路に向かいます。

2012年9月24日月曜日

スワミ・ヴィシュワナンダのダルシャン(祝福) 2012年9月

スワミジは忍耐強く、愛情を込めた、素晴らしいダルシャン(祝福)を行う。
そして心に質問のある人達の言葉に耳を傾ける。
日本人の信者が祈祷(実際にはお経)を唱える。
リズミックな語り歌で、非常に力強く、非凡な出演。
スワミニ・ヴィシュワ・ラクシュミ・アナンダが最後にアルティを行う。
(アルティはアルティ・ランプを旋回させて、神々やマスターを敬い、その祝福を授かる為の儀式)








スワミ・ヴィシュワナンダの討論会 2012年9月 シュプリンゲン

スワミ・ヴィシュワナンダの夕べの討論会は、
もう殆んど出来上がった、新しい光の間で行われる。
幾つかの質問に対して、スワミジは愛情深く微笑まずにはいられない。
二三のユーモアに溢れた質問に対して、時々大変楽しい答えが戻って来る。



2012年9月16日日曜日

スワミジ とマハヴァタール・ババジ

スワミ・ヴィシュワナンダとの光の間における祈祷、討論会、祝福のひととき。

2012年9月14日金曜日

スワミ・ヴィシュワナンダのダルシャン(祝福)


ダルシャンという言葉はサンスクリット語に基づいています。ダルシュは見るとか光輝を受けるという意味です。それは神殿の神像、霊的な指導者、ヨーギー、あるいは尊敬する人物に出会うということです。
スワミ・ヴィシュワナンダのダルシャンは、マスターとの出会い、そしてその祝福を受けることを意味しています。ダルシャンのプログラム進行中、スワミ・ヴィシュワナンダは神に歌いかけたり、瞑想を指導したりします。ダルシャンの際には全員が順番に前へ出て、各々個人的に祝福を受けます。祝福は跪いて、又は立ったままで受けます。祝福が与えられている間は、バジャンが歌われ、誰もが一緒に歌ったり、あるいは瞑想したり出来ます。

スワミ・ヴィシュワナンダのダルシャン


「私は人々の額と後頭部に触れてダルシャンを行います。私がメドゥラ(後頭部の一点)と額のアジナ・チャクラ(第三の目とも言われている)を同時に押すことによって、私達の身体を支え、又私達の身体を流れている、神から与えられた生命力が一点に集中して、心臓に送られます。このエネルギーは心臓をより強く振動させ、これを開くのを助けます。それは又このエネルギーに欠ける身体の様々な部分にも送ることが出来ます。大切なことは、ダルシャンを受けた人が感じる愛は、自分の内部に存在する、自分の神なる魂の愛であると理解することです。

ダルシャン、あるいはマスターの祝福は助けには成りますが、悟りに繋がるものではありません。従ってこれは日頃の瞑想や内省、又その他の徹底した霊的な実習には成りません。それにもかかわらずダルシャンは、神の名を歌う平和に満ちた雰囲気を通じて、この道を行く人の重要な支えと成り得るのです。

私の役目は、人々の心を開き、誰もが永遠の愛を内に抱いていること、そしてそれを無条件で他人にも与えることが、少しも難しいことではないと分かってもらうことです。」

2012年9月11日火曜日

スワミ・ヴィシュワナンダのシュリ・ピタ・ニラヤ・センター



国際的なシュリ・ピタ・ニラヤ・センターはシュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの住居で、自然の美しいタウヌスのシュプリンゲンにあります。このセンターはシュピリチュアルな道を行く人達が、神様の霊感を体験出来る場所です。自然の永遠の広がりが、神様の存在の近さを感じさせます。
シュリ・ピタ・ニラヤ・センターの住民は、献身を生活の目標としています。その為に選ばれたバクティ・マルガという名は、この人々の集まりと、又このセンターに密接な繋がりを感じている人達の生活様式を反映しています。世界各地の様々なグループが、献身を全ての人々に目覚めさせるスワミ・ヴィシュワナンダの使命を支援しています。

スワミ・ヴィシュワナンダの教え 献身への道


サンスクリット語でバクティ・マルガは献身への道の意味です。この道は私達を自分自身の心へ導く、一つの生き方です。これは私達を真なる自己である、神の愛に結びつけます。魂が目覚めると、心の奥底に、自分を変えたいという、深い願望が湧いて来ます。これを知ることは驚嘆すべきことですが、まずは摑みにくく思われます。そこでこの献身の道が、呼びかける魂に対する答えとなるのです。バクティ(献身)は私達に神へ向かう幾つもの扉を開いてくれます。私達には様々な道を見極めてから、自分の道を選ぶ自由があります。魂が完全にバクティ(献身)に浸りきると、そこから神の愛が目覚めて来ます。そしてそこから自分自身を無条件に受け入れる気持ちが生まれ、周囲の人々に向かって純なる愛が流れ出します。このようにして心の中に神の愛が生まれると、この愛を日常他人にも与える自信が育っていきます。誠実な献身は人生を自然に発展させます。くせのある性格は解かれ、姿を消します。それによって喜びが生まれ、生きることに対する姿勢が、新しく楽天的な態度に変わっていきます。そしてそこには全く新しい存在の次元が開かれます。神の愛が人生のあらゆる面に滲み透って、人とその周囲をポジティブな方向へと変えていきます。シュピリチュアルな教師であるシュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは真実で、純な愛を表現しています。彼の生き方と愛に満ちた存在は、献身をどのように日常生活に取り入れて生きて行くかを知るのに、大変素晴らしいお手本となっています。シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは献身に生きています。

2012年9月10日月曜日

シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダ

シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは霊的な指導者です。1978年にマウリティウス島のヒンドゥー家庭に生まれ、子供の時から宗教的な慣習や霊性に大きな関心を示していました。幼い頃から神や聖者達の存在を知っていたのです。その比類のない人間性はまもなく忠告や祝福を求める多くの人々を引き寄せました。勉学の終了後はその天職に身を捧げ、アフリカ、ヨーロッパを始め、世界各国からの招待に応じて、数多くの地を訪れました。


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの心は全ての宗教や文化に対して開かれています。シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの特別な愛はキリストと、その無条件の愛と寛容に貫かれた教えに結び付いています。そして大変自然な方法でヨーロッパの伝統とヒンドゥー教の精神を結び合せ、様々な文化や年代の人々に神を個人的に体験する道を教えています。
「私達は皆兄弟であり、同じ神から来ています。私達の真の姿は、日常の感情と思考の背後に隠れている私達の魂、私達の自己です。私達の兄弟全員と再び一体になるために、私達は肉体、精神、魂が内面的に一つであることを経験しなければなりません。私達はありのままの自分、そして各々の肉体、感情、思考をそのままの姿で受け入れ、愛さなければなりません。又それと同時に自らの魂を追い求めなければなりません。人間は皆同じ源から来ていること、そして又同じ源へ帰っていくことを思い出さなければなりません。」


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの活動の中心を成しているのは、ダルシャン(祝福)、そしてバクティ(愛と献身)の意味における霊的な生活に関する実際的な手引きです。それには規則正しい祈祷、ヤグナ、アビシェカム等の儀式、瞑想、唱歌、そして霊的な道を深める為のヨーガ、ムードラ、マントラ等の実習が加わります。



シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダは、この霊的な道を歩むには、忍耐と持久力が必要なこと、そして日常の生活と同様に、決して性急な結果を要求しないことを強調しています。スワミ・ヴィシュワナンダは人々が師の言いなりになることを望んではいません。人間は自分の内部の神とグル(師匠)を信頼すべきであると言っています。



「私達は常に健全な常識を使用するべきです。舞い上がって、現実を顧みなくなることには、何の意味もありません。私達は地面に足をつけ、この地上で自分達の仕事をしなければなりません。神を敬い、また自らを敬うことによって、私達は段々に成長していくのです。」


シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダはキリスト教の聖者と東洋の霊的な師匠に深い繋がりを感じ、その生涯と教えを学んで、それを皆に伝えています。又好んで聖画像を描くことに時間を費やしています。シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダの言うところによれば、私達はこの聖者達の例に倣って、神に対する完全な献身を身につけ、又その人達の人生から霊感を受けることが出来るのです。聖画像を描くこと、儀式や祈祷、そして唱歌等は全て各々の聖者や私達の内にある神に対する繋がりを深めていくことに意味があるのです。



「聖人は全ての人間を平等に愛しています。それは人間が皆神の分身であり、又その創造物であることがよく解っているからです。聖者達には最初から人種、文化、宗教等に関する疑問は湧いてきません。私達も又この例に倣うべきです。私達の地球とその創造物は全て愛から生まれ、愛によって育まれ、又愛に戻っていくのです。」




「時代を超えて多くの指導者、聖者、賢者が現れました。それが如何に様々な言葉や伝統に包まれていても、この人達が伝えることは根本的にはいつも同じでした。今の世界に欠けているのは神を実現する為の教義ではなく、人々がこの教えを実行に移そうとする意志です。特に現代には外面的な愛着に引かれ、気を散らす対象がいくらでもあります。それは無常で、苦しみの原因に成る物です。それでいわゆる内面的な愛着を呼び起こすことが必要なのです。これは永遠で苦しみを生ぜず、口では言い表せない喜びを引き起こします。神は窓から射し込む太陽の光のように常に存在しています。でもカーテンを寄せ、窓を開けるのは私たち自身です。」

スワミ・ヴィシュワナンダの願いは、内面の神の光を求めて歩む人々を助けることです。沢山の人々が霊的な、あるいは日常生活における様々な疑問に対する忠告を求めてスワミ・ヴィシュワナンダを訪れ、その出会いに心を動かされています。スワミ・ヴィシュワナンダは神を心の底から愛し、非常に直接的な、又簡単な方法で神を人々に近づける能力を持った人です。



「期待という物は全て苦痛をもたらします。私達の魂には只一つ真の期待があり、それが神の真の愛なのです。この神の真の愛は献身によってのみ、私達の心の中に見出すことが出来ます。歩むべき道を示してくれる師匠の所へ行くことも出来ますが、真に神の傍に居たいと望むこと、それを求めてやまないこと、それは皆その人自身からきているのです。何故かというと、神を心から求め、又神を真に欲さない限り、それは捜し求めている段階で終わってしまいます。片足を踏み入れていても、もう片方の足は何処か別の所にあるのです。

この真実の愛を見出し、神との心の中の深い繋がりを認識するには、神への献身であるバクティを実習しなければなりません。あなた方が心から身を捧げ、『神様、私はあなたのお傍へ行きたい、私の所に現れて下さい』と言ったなら、神様はあなた方の所へ現れることでしょう。神様はあなた達に『ノー』とは言えないのです。何故かといえば、あなた方の自己はあなた方から隠れることは出来ないからです。あなた方の心の奥深くにまどろんでいる、このより高い意識は、あなた方の精神が完全に神に向かった時に現れて来ます。さあ、神様を求め、心の奥底から呼びかけてごらんなさい。『神様、お姿を現して下さい。あなたが何処かとても深い所におられるのは分かっています。時々はあなたを感じることも出来ます。あなたがそこにおられるのも分かっています。でも私は常にあなたを感じていたいのです。絶え間なく!』あなた方の誰もが望んでいるのは、まさにこの神の愛を常に感じていること、そうではありませんか?」

*以上はシュリ・スワミ・ヴィシュワナンダが人々に話した色々な訓示の言葉からの引用です。